御登山に向けて

月末に御登山させていただく予定ですが、ここに来てコロナの拡大。

 

そして仕事でも、いま担当している仕事が年度末で打ちきりになりそうということが起きてきました。

 

私の不手際ではないのですが、やっぱりなと言う感じですね。

 

どんな形で障りが出るかはわかりませんですが、去年も経験してますので驚きはしませんでした。

何としても登山させていただきたいし、友人にも観てもらいたい。

ネットでは悪態ついている人はいますけど、本当に観てもらえばわかるんですけどね。

 

ともあれコロナをうっちゃりたいです。

 

あとは、コロナによって苦しむ人がいなくなってほしいと思います。

 

 

 

 

目師会

目師会のために菩提寺に参詣させていただきました。

(以下引用)

 

目師会(もくしえ)は、第三祖日目上人に対し御報恩の誠を尽くすため、日目上人が入滅された十一月十五日に奉修される法要です。

日興上人との出会い
日目上人は、藤原北家の庶流、下野国(栃木県)の小野寺氏から出た奥州三迫(さんのはざま=宮城県栗原市)の新田五郎重綱殿を父とし、伊豆国静岡県)南条兵衛七郎殿の娘で、南条時光殿の姉である蓮阿尼を母として、文応元(1260)年、伊豆国仁田郡畑郷(静岡県函南町畑毛)で誕生され、幼名を虎王丸と称されました。
文永九(1272)年、十三歳のときに伊豆の走湯山円蔵坊に登り、同十一年、日興上人がこの寺を訪ね、山内第一の学匠と言われた式部僧都と問答をされた折、日目上人は、日興上人の尊容と大聖人の仏法に触れ、入門を願い出て許され、日興上人のお弟子となりました。

常住給仕
日目上人は、二年後の建治二(1276)年の十一月、日興上人を慕って身延山に登り、宮内卿の公と名付けられました。この名を略して「卿公」と呼ばれ、のちに「郷阿闍利」あるいは「新田郷阿闍利」とも称されました。
身延山では、日興上人はもちろんのこと、大師匠である日蓮大聖人に常隋給仕されました。
日目上人は、まことに行体堅固であり、日に何度も身延の谷川へ下って水を汲み、桶を頭に載せて運ばれたので、自然に頭頂部がくぽんで平らになったと伝えられ、日目上人の御影像にもそのお姿が表されています。

問答に秀でられた日目上人
日目上人は、勝れた弁論家でもありました。弘安五(1282)年に大聖人が武州池上宗仲の館で休養されたとき、鎌倉幕府の二階堂伊勢守の子で、比叡山の学僧・二階堂伊勢法印が大勢の供を引き連れ、親の権威を嵩(かさ)に着て大聖人に問答を挑んできました。その時、大聖人は「それはたやすきことである。郷公に相手させよ」と仰せられ、日目上人が大聖人の代理として伊勢法印と問答されました。
第一番から第十番の問答が行われましたが、日目上人は伊勢法印を一々屈伏させ、その場に居合わせた一同を感嘆させました。
この法論の顛末を聞かれた大聖人は、
 「さればこそ日蓮が見知りてこそ郷公をば出(い)だしたれ」
と、笑みたたえて満足され、日目上人の功績を愛でられたと伝えられています。
この問答ののち、大聖人は日目上人を呼び寄せ、自らの御歯を与えられています。
『家中抄』には、
 「御牙歯脱(ぬ)け落つ、聖人此の歯を以って日目に授けて曰(のたまわ)く、我に似(あやか)り問答能(よく)せよとてたまわりける御肉付きの御歯と申すは是なり、此の御歯当山霊宝隋一なり」(同653頁)
と記されており、大聖人が日目上人の功績に対して授与されたものと拝されます。
この御歯は「御生骨」と称され、代々の御法主上人によって、現在まで総本山大石字に厳護されています。

日興上人の跡を紹継
弘安五年に大聖人が御入滅されたのち、日目上人は第二祖日興上人に仕え、正応二(1289)年、日興上人が謗法の山と化した身延を離山し、富士上野(静岡県富士宮市上条付近)に移られる際にも、その片腕として師を大いに助けられました。
翌正応三年十月十二日、南条時光殿の外護によって大石(おおいし)ヶ原に大石寺が創建され、中枢となる大坊が出来上がると、日目上人は、早速、その東側に蓮蔵坊を建立し、本門戒壇の大御本尊と日興上人の守護に努められました。
日興上人も、行体から弘教に勝れた日目上人を本六僧筆頭とされ、大石寺開創を機に血脈相承を内付して「御座替わり御本尊」を授与されました。そして永仁六(1298)年、日興上人が重須(富士宮市北山)に移られてからは、事実上、日目上人が住職として大石寺を守られました。
元弘二(正慶元・1332)年十一月には、日興上人から『日興跡条々事』をもらって本門弘通の大導師と定められ、名実ともに一門を統率する立場にたたれました。
日目上人は、大聖人、日興上人の志を奉じて国主諫暁され、公家、武家に対する申し状の奏呈は四十二度にも及んだと伝えられています。
元弘三年に鎌倉幕府が滅亡し、建武の中興を機に日目上人は天奏を決意され、同年十月、第四世日道上人に法を付嘱し、七十四歳の老体を押して、日尊、日郷の二師を従え、京都を目指されました。しかし途中、美濃国垂井(たるい=岐阜県垂井町)の宿で病に倒れられ、伊吹颪(おろし)の吹きすさぶなか、天奏を日尊・日郷両師に託し、入滅されたのです。
総本山においては、御法主上人の大導師のもと、日目上人が入滅された十一月十五日に、客殿において目師会が奉修されており、各末寺においても、これにならって法要を奉修しています。私達は、目師会に参詣し、広宣流布成就のため、不惜身命の弘教に挺身された日目上人に御報恩申し上げるとともに、その尊い御精神と行体を受け継ぎ、折伏弘教に邁進することをお誓いいたしましょう。
なお、日師会の日である十一月十五日が、世間で子供の健やかな成長を祝う七五三祝いの日に当たっていることは、まことに不思議なことです。
本宗には古来「広宣流布の暁には日目上人が出現される」との言い伝えがあり、大勢の小僧さんのなかに将来の御法主上人がおられると確信して、立派な成長を願い、この十一月十五日には特に若い僧侶を大事にするのです。
私達は、日蓮正宗の将来を担う小僧さん達、また正しい信仰を持つ法華講の子供たちが穏やかに成長し、立派な広宣流布の人材に育つようご祈念しましょう。

 

 

創価学会では日目上人様の御観念文(祈念文)を削除。

 

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